<戦後80年>東京上空で起きた「特攻」…隊員たちの思い

2025.08.13(水)

10:20

戦後80年を迎えるに当たって、TOKYO MXは『20代の記者がつなぐ戦争の記憶』と題して連日お伝えしています。今回は、敵の戦闘機や戦艦に体当たりするために編成された「特攻隊」=特別攻撃隊についてです。東京・千代田区に本部がある特攻隊戦没者慰霊顕彰会によりますと特攻隊として命を落とした人は6371人に上り、そのほとんどが10代から20代の若者でした。東京都内に残る特攻隊の記憶と、伝承を続ける人の思いを取材しました。

戦後80年を迎えるに当たって、TOKYO MXは『20代の記者がつなぐ戦争の記憶』と題して連日お伝えしています。今回は、敵の戦闘機や戦艦に体当たりするために編成された「特攻隊」=特別攻撃隊についてです。東京・千代田区に本部がある特攻隊戦没者慰霊顕彰会によりますと特攻隊として命を落とした人は6371人に上り、そのほとんどが10代から20代の若者でした。東京都内に残る特攻隊の記憶と、伝承を続ける人の思いを取材しました。

練馬区にある区民の憩いの場・光が丘公園は戦時中「成増飛行場」という陸軍の飛行場が置かれていました。そして、公園と都営地下鉄大江戸線・光が丘駅を結ぶ長い並木道のあたりには、特攻隊が飛び立ったおよそ1200メートルに及ぶ成増飛行場の滑走路がありました。

東京がアメリカ軍による初の空襲を受けたことを背景に、帝都防衛のため、3分で皇居まで飛行機が飛べる場所として急きょ1943年に建設されたのが成増飛行場でした。当初の目的はアメリカ軍の戦闘機・B29を迎え撃つことで、防衛の要衝となりましたが、次第に戦況が悪化する中、終戦の前の年となる1944年、敵機に体当たり攻撃をする「特攻」が開始され、成増飛行場からは6人が出撃し、うち5人の若者が犠牲になりました。

板橋区で生まれ育った郷土史家の山下徹さん(64)は、地元の広報冊子の製作に携わり、光が丘公園内の平和祈念碑を取材したことがきっかけで、およそ30年にわたって成増飛行場を中心に区の歴史を研究し続けています。

8月9日、板橋区で開かれた山下さんの講演会では、特攻隊員たちに直接取材した貴重な証言が紹介されました。山下さんは「特攻隊になるための準備をする非常に重要な場所が成増飛行場だった」と説明し、この中で特攻隊に編成されていた伴了三さんの「自分は死ななくて敵を倒すというのが軍人の任務を果たす通常の形。『命を捨てて敵をやっつけろ』そんな教育は受けたことがない」という証言もありました。山下さんは「飛行機でそこ(B29)に突っ込んでいくのは至難の技。だから、そういう技量があれば通常の武器を積んで攻撃できる状態で行き、弾で落とせば済むのではないか。そういうふうに伴さん(元特攻隊員)は思っていたそうです」と解説しました。

特攻隊員たちの声を聞き取材を続けてきた山下さんは「戦争は若者から犠牲になる。あってはならないもの」だと訴えました。山下さんは「(特攻隊員は)与えられた任務を非常に真面目にやっている。普通だったら特攻と言われてもあんな突っ込んだりしない。今ではとても考えられないが、それをやっちゃう」と戦火に散った若者をおもんぱかりました。

終戦から80年となり、戦争を経験した世代が少なくなる中ですが、伝承者としてまだまだできることはたくさんあると山下さんは話します。山下さんは「証言者はいなくなってきたが(いまだに新たな)資料は出てくる。まだまだ調べられることはたくさんある。自分で気が付いて自分で調べないと駄目ですよ。人から言われたって心に残らないと思うので。自分で気が付くってことが大事。『気が付く』ってことを気が付かせる。調べるのは楽しいですよと。そういうことに気が付いてもらうように努力します」と語りました。

RELATED ARTICLE関連記事