終戦記念日の8月15日は被爆した経験を後世に残そうと、語り部として活動を続ける女性の証言です。

今月、葛飾区が開いた「非核平和祈念のつどい」には区民ら100人ほどが訪れ、献花などを通して参加者が核兵器の廃絶と平和への思いを新たにしました。
富田さん:「世界中で核兵器がなくなるように、また核戦争なんて絶対に起こってはいけないということを今後も(活動を)続けていきたいと思います」
自らの被爆した経験を講演会や学校で伝え続けているのが、葛飾区に住む富田芳子さん85歳です。6歳のとき、長崎県長崎市で、原爆の投下地点から約1.8キロの場所にあった自宅で家族とともに被爆しました。
富田さん:「ピカッと光ったので思わず窓の方を見たら、それこそ綺麗な七色の虹のような光がバーっと落ちてきたのね。それで窓を見た途端にとドーンとすごい音がして、その音の後にグラグラと揺れたんですよ」
空襲警報が鳴るなか、自宅にいた富田さんや家族は爆風に当たらず軽症でしたが、隣に住んでいた家族の顔が溶けた様子は今でも「忘れたくても忘れられない」と話します。
富田さん:「隣の方は親子3人で、朝から買い出しに行って家まで帰ってきたんだけど(中略)一番後ろにいたのは長女の方で爆風でやられて鼻が溶けちゃって、目がここら辺まで飛び出してるんですよ」
多くの人の命が一瞬で無残に奪われていった光景が、79年という時が経ってもトラウマになっていると語る富田さん。戦争は普通の生活を根本から壊してしまうことを幅広い世代の人にまずは知ってほしいと、これからも語り部の活動を続けていきます。
富田さん:「(次の世代が)何をするとかじゃなくて、そういうことが日本の歴史の中にあって、死にたくなくても死んでいった若い人たちもたくさんいて、そういうしたくもないことをした時代があったということだけでも知っていただくと、私はいいんじゃないかと思う」
語り部の富田さんは、26歳から約60年に渡って葛飾区の被爆者団体で活動をしているそうです。富田さんが入会した時は15人いた語り部も、亡くなったり、体力が衰えたりして、今は1人になってしまったそうです。そんな中でも富田さんは今後も体力の続く限り、少しでも機会があれば体験を伝え続けたいと話しています。