江戸の水道料金は何で決められた? 水道橋で学ぶ江戸上水の歴史

2019.06.23(日)

06:50

東京の魅力を再発見するTOKYO MX(地上波9ch)の情報生番組「週末ハッピーライフ!お江戸に恋して」(毎週土曜11:00~)。6月8日(土)放送の「もっと進め!江戸小町」のコーナーでは、水道橋で、江戸上水の歴史を学びました。

東京の魅力を再発見するTOKYO MX(地上波9ch)の情報生番組「週末ハッピーライフ!お江戸に恋して」(毎週土曜11:00~)。6月8日(土)放送の「もっと進め!江戸小町」のコーナーでは、水道橋で、江戸上水の歴史を学びました。

「東京ドーム」「後楽園ホール」などがある水道橋。このエリアは、江戸時代にあった「水道橋」という橋の名前から名づけられました。

今回は、江戸発展の礎となった“水の道”の歴史を、水道橋駅から徒歩8分のところにある「東京都水道歴史館」で学びます。

◆江戸の水道を作った“菓子職人”

東京都水道歴史館は、江戸上水の歴史、東京水道の発展など、世界最高レベルの水道技術や文化を紹介する施設です。案内してくれたのは、企画調査責任者の金子智さん。

まずは、江戸の上水史について。「今引かれている水道の原型は、江戸時代にさかのぼる」と話す金子さん。徳川家康の江戸入府に合わせて開設された、江戸最古の上水道「神田上水」をはじめ、当時は多くの上水道が整備されました。

埋立地が多いため、井戸から塩分の多い水が出るなど、良質な水に恵まれなかった江戸。それこそが、古くから上水道整備に取り組んだ、最大の理由でした。

徳川家康に命じられ、神田上水を完成させたのは、大久保藤五郎という武士でした。菓子づくりで知られた藤五郎でしたが、“菓子づくりには水が欠かせない”という理由や、その人柄から、上水を開削することに。

見事完成させた藤五郎には、その功績として「主水」の名が与えられました。通常、「主水」は「もん“ど”」と発音しますが、水が濁らないようにとの願いから、「もん“と”」と発音するよう命ぜられたそうです。

◆江戸っ子が愛した水管橋の風景

水道を張り巡らせるためには「水道管」が必要。江戸では、時代によって素材は異なるものの、ヒノキ、松、竹など、水に強い木が使用されました。「今でも(現物が)掘り起こされるくらい丈夫なもの」だったという当時の水道管。館内では、掘り起こされた実物を見ることができます。

館内には、「神田上水・お茶ノ水の懸樋(かけひ)」の模型も。「懸樋」は、川を横断して上水道を張り巡らせるための水管橋です。江戸の水道橋の隣にも、「上水樋(じょうすいひ)」と呼ばれる懸樋がありました。

神田上水・お茶ノ水の懸樋は、歌川広重の浮世絵にも描かれています。ほかにも、「江戸名所図会」「東都三十六景」「絵本江戸土産」などには、懸樋が描かれた作品が多数。江戸っ子たちの関心が高かったことがうかがえます。

◆“玄関の幅”で決まった水道料金

江戸の人々も「水道料金を支払っていた」と話す金子さん。現代のように水道メーターがない当時は、身分によって料金が変動していたそうです。

「大名は石高(米の生産高で示される土地評価単位)に応じていくら、というようなものでした。一方、町人は、間口で料金が決まっておりました」

間口とは、玄関部分の幅のこと。幕府の公式記録「上水記」によると、1間(約1.82m)=年間16文(現在の価値で約320円)が基準となっていたそうです。

ちなみに、江戸時代の集合住宅「長屋」では、大家が水道料金を払うことが多かったとか。また、長屋は、短冊形の敷地に軒を連ねていたので、入り口は狭くつくられていたそうです。

館内には、当時の長屋の上水井戸端や下水道も再現されており、当時の水道のある暮らしを垣間見ることができます。

次回の放送も、スポーツの魅力や江戸の歴史などをお届けします。お楽しみに!

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<番組概要>
番組名:週末ハッピーライフ!お江戸に恋して
放送日時:毎週土曜 11:00~11:55 「エムキャス」でも同時配信
レギュラー:朝比奈彩、松尾雄治、堀口茉純、田中雅美
番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/edokoi/
番組Twitter:@edokoi9ch

 

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