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<戦後80年>東京でも犠牲者“模擬原爆” 長崎原爆の投下訓練

地域・まち - 2025年8月14日 19時00分
終戦から80年を迎えるこの夏、TOKYO MXは『20代の記者がつなぐ戦争の記憶』として、連日お伝えしています。今回は「学校日誌が語る 西東京市に落とされた模擬原爆」をテーマに取材しました。

模擬原爆とは、アメリカ軍が原爆の投下訓練を行うために作った爆弾です。長崎県に投下された原爆と同じ形・重さで、アメリカ軍は原爆の情報が漏れないようにするため、模擬原爆には爆弾を完全に爆発させるための作動装置を3つ付けていました。アメリカ軍はこの模擬原爆を広島と長崎に原爆が投下される直前の1945年7月20日から8月14日の間に日本国内の49カ所に投下し、1600人以上の死傷者が出たとされています。このうち都内では中央区(皇居近く)と西東京市の2カ所に投下されました。投下地点の1つとなった西東京市で、どのような被害があったのか取材しました。

西東京市の住宅街の中にある「しじゅうから第二公園」──。長崎に原子爆弾が投下される11日前の1945年7月29日、当時ジャガイモ畑だったこの場所に1つの爆弾が投下されました。

球体型で黄色く塗装されていたことから「パンプキン」と呼ばれていたこの爆弾は、アメリカ軍が原爆投下の訓練を行うために作った模擬原爆です。核物質は使われていませんが、当時最も大きな爆弾である1トン爆弾の4.5倍の量の爆薬が搭載されていました。

模擬原爆の威力について、落下地点からおよそ2.5キロ離れた保谷小学校の「学校日誌」には「B29、1機侵入。西武柳沢駅南方約1キロの地点に大型爆弾を投下。民家に被害あり、且(かつ)死傷者十数名を出す。当校はガラス戸に少被害ありたる程度なり」と記されていました。飛行機の部品工場を狙ったみられる“原爆の予行練習”でした。

実際に落下したのはおよそ600メートル離れたジャガイモ畑で、畑仕事をしていた女性3人が亡くなり、11人が重軽傷を負いました。模擬原爆の被害がまとめられた冊子には、妻を亡くした夫の証言が残されています。その中には「突然、猛烈な爆音。その轟音(ごうおん)が今までいた畑の方向なので、残っている妻と子どもが気になり大急ぎで戻ると、妻は畑に倒れています。眉間に爆弾の破片らしいものが突き刺さって血まみれ。もう駄目だと瞬間感じ、気が遠くなるようでした」という記述も見られました。

80年前にこの場所で行われた“原爆の予行練習”という事実を後世に伝えていくため、西東京市は2025年7月、落下地点のしじゅうから第二公園に解説板を設置しました。

この解説板の設置に尽力した1人が、西田昭司さん(78)です。西田さんの祖母は広島で被爆していて、その体験談を聞いたことをきっかけに戦争被害に関心を持ち、その中で模擬原爆のことも伝えていく必要性を感じたといいます。西田さんは「単なる爆弾が爆発したという捉え方をすれば“死んだの”みたいな話になるが、そうではなく、原爆の攻撃の訓練で殺されたんだと。どういうふうに殺されたのか、どんな爆発力だったのか、知ってほしいと思う」と語ります。

模擬原爆の投下から80年となる今年、西田さんは悲惨さを伝える活動を今後も続けていく必要性を強く訴えています。西田さんは「模擬原爆は、原爆という非人道兵器で軍人やそうでない人を無差別に殺りくするわけで、広島・長崎に確実に落とすために、訓練をするために落としたということ。このことを知らせていかないといけない。これは原爆のための被害なので」と語りました。

<西東京市に投下された“模擬原爆”後世に伝えるために…>

西田さんは模擬原爆が投下された事実を伝えていくに当たって、2つの懸念点があると話しています。

まず1つ目が「模擬原爆の認知度の低さ」です。日本各地に投下された巨大爆弾が「模擬爆弾」だったと分かったのは1990年代に入ってからのことで、西東京市民でも模擬原爆が落とされたという事実を知らない人が多いといいます。

そして2つ目が「証言による伝承の難しさ」です。戦争経験者が減っていくことももちろんですが、模擬原爆については特に証言が少なく、事実を「物」として残していく必要があるといえます。そうした思いが、今回の解説板設置にもつながりました。

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