「嫌だ!逃げるよ!」母の手引いた火の中の記憶 東京大空襲から81年
地域・まち - 2026年3月10日 21時00分
一晩でおよそ10万人が犠牲となったとされる1945年3月10日の「東京大空襲」から81年の月日がたちました。空襲経験者の高齢化による記憶の風化が課題となる中、5歳の時に空襲に遭い、81年がたった今も記憶が鮮明に残っているという86歳の女性が当時の悲惨な状況を話してくれました。
東京・府中市に住む阪本光子さん(86)は、当時住んでいた江東区亀戸で爆撃に見舞われました。わずか5歳だったその時の記憶は、80年以上がたった今も鮮明によみがえるといいます。当時、両親ときょうだいの家族5人で暮らしていた光子さんは3月10日の深夜、自宅で姉と寝ていたところ、父親に起こされます。光子さんは「父がいつもの空襲警報と違うからきょうは逃げるんだと言って。逃げるといってもどこに逃げるんだ、店がずらっと並んでいるところでどこに逃げるんだって。しょうがないので、渡って土手山に逃げた」と当時を振り返り「(自宅が)燃えるのをそこらへんで私はしゃがんで見ていたような気がする。真っ赤でしたね。燃えていたから」と語りました。
そして土手から降りた時、飛ばされそうなほどの強風が吹き、家族は離れ離れになったといいます。光子さんは母親と共に逃げました。光子さんは「歩いていた時、母が『火の中に飛び込んで死んじゃおうか』なんて言ったんですよ。だから私は『嫌だ!』って言った。『逃げるよ!』って。母を引っ張って逃げたんです」と証言しました。
風上の亀戸駅を目指しましたが「亀戸駅まで行けなかったんですよ、混んじゃって。うずくまってその上に人がいっぱい重なってきて。痛くて痛くてもう私は痛いよ痛いよと言っていた」(光子さん)という状況で、母親のいねさんは光子さんに覆いかぶさって守りながら必死に火の粉を払い、火災が落ち着いた時には熱で母親は一時的にほぼ目が見えなくなっていたといいます。
光子さんが手を引き、辺りの焼死体の間を縫うようにして家に戻ると、自宅や近所の長屋は全焼していました。辺りの長屋のほとんどが焼けて、遠くまで見通せたといいます。その後、無事に戻った家族とも再会し、江戸川区にある知り合いの親戚の家や長野県内の家などに身を寄せて生き延びました。光子さんは「焼け出された後、どうしようもなかったと思う。父母を考えるとね」とおもんぱかります。
空襲の後も家族と共に戦争の苦労を乗り越えてきた光子さんですが、望んでいるのは“自分よりも苦労をしてきた人のための補償”です。光子さんは「(自分のような)両親がいた子は守られて育ってきたと私は思う。苦労した人がいっぱいいるわけだから、そういう人にはやっぱり何かあっていいんじゃないかなと思いますけどね」と話しています。