「江戸っ子」の勇み肌のいきな姿を表わす言葉に、「いなせ」があります。これはどんなことに由来する言葉でしょう?
〈花の雲 鐘は上野か 浅草か〉
この松尾芭蕉の句に詠まれている「鐘」とは、どんな鐘でしょう?
右の絵は江戸時代に流行した、「判じ絵」と呼ばれる絵で示すクイズです。この絵は江戸の町名を示していますが、それはどこでしょう?
人気時代劇『水戸黄門』で、「この紋所が目に入らぬか!」の決め台詞に使われるのが「印籠」です。では江戸時代、印籠は何に使われていたのでしょう?
神田明神には、祭神のひとつとして実在の人物が合祀されています。その祟りを鎮めるために祀られたといわれるこの人物は、誰でしょう?
次にあげるのは、鳥のホトトギスを詠んだ句です。このうち、江戸幕府の初代将軍となった徳川家康の性格を表わしているとされるのは、どの句でしょう?
4代将軍家綱は、政治向きの伺いがあっても何も指示をせず、人任せだったため、世の人からあるあだ名で呼ばれたといいます。それは次のどれでしょう?
赤穂事件の発端となったのは、元禄14年(1701)3月14日、江戸城中で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた事件です。さて、この事件が起こったのは、江戸城のどの場所でしょう?
徳川御三家の上屋敷は江戸時代当初、江戸城内の吹上にありましたが、明暦の大火(1657年)後に城外に移されました。このとき、徳川家康の9男義直を祖とする尾張徳川家が移転したのは、どこでしょう?
好奇心が強かったことで知られる水戸黄門こと徳川光圀は、さまざまなものを食べた記録があります。では、次のうち、光圀が食べたことのないものはどれでしょう?
幕府の政治の動きとそれを主導した人物を示しました。間違っている組み合わせはどれでしょう?
私は、飢饉対策としてサツマイモ(甘藷)の栽培を8代将軍徳川吉宗公に建白し、採用されて普及に努めました。のちには「甘藷先生」とも呼ばれた、私は誰でしょう?
「山の手」とは、江戸城の北側から西側にかけての台地を指す言葉でした。曲亭馬琴は著書『玄同放言』のなかで、山の手の代表として青山・四谷などいくつかの地名をあげています。では次のうち、馬琴が山の手としてあげた地名は、どれでしょう?
明暦の大火(1657年)は、死者10万人以上を出した江戸時代最大の火災といわれます。では、幕府がこの大火の犠牲者を埋葬・供養するために建立した寺は、どれでしょう?
現在の東京都台東区蔵前あたりに、隅田川に面して幕府の巨大な施設「浅草御蔵」がありました。これは、主として何を貯蔵するための蔵だったでしょう?
江戸でも指折りの盛り場だった両国広小路は、両国橋のたもとに設けられた広場です。この広場はもともと、何を目的に設置されたのでしょう?
江戸時代に隅田川に架けられた橋のうち、最も長かったのは永代橋で、110間ありました。では、110間はおよそ何メートルでしょう?
品川の東海寺にまつわる逸話に、「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに」と将軍に問いかけられ、沢庵禅師が「大軍を率いても将(小)軍というがごとし」と答えたという話があります。この問いかけをした将軍は誰でしょう?
〈小兵でも これ見てくれの 大がらん〉
この川柳は、小さな秘仏を本尊とするお寺が、大きく繁栄していることを詠んだものです。では、どの寺を詠んだものでしょう?
江戸時代、日本橋の南詰や高輪の大木戸などには、法令や禁令などを書き記した木の札が掲げられていました。この場所を何と呼ぶでしょう?
江戸には南北2つの町奉行所にそれぞれ町奉行がいて、市中の治安維持や訴訟の処理にあたっていました。では、2人の町奉行はどのように職務を分担していたでしょう?
火付盗賊改とは、放火犯や盗賊を捕らえることをおもな任務とした幕府の役職です。では、寛政期(1789~1801)に活躍し、石川島人足寄場設立を提案した人物で、この火付盗賊改を勤めたのは誰でしょう?
品川の鈴ヶ森には、千住の小塚原と並んで有名な刑場がありました。では、この鈴ヶ森で処刑されたのは、次のうち誰でしょう?
〈( )へ 人の噂を 汲みに行き〉
これは、江戸の庶民の暮らしを題材にした川柳です。( )に入る言葉はどれでしょう?
江戸で長屋の管理・運営を任されていたのが、家主・家守とも呼ばれた大家です。では、彼らはどのようにして生計を立てていたのでしょう?
「草木も眠る丑三つ時」という表現の「丑三つ時」は、現在の時間でいうと何時頃を指すでしょう? 春分ごろを基準として選んでください。
鰻料理の代名詞のようになっている蒲焼が誕生したのは、江戸時代の元禄期(1688〜1704)とされています。この鰻の蒲焼が広く普及したのは、ある調味料が使われるようになってからですが、それは何でしょう?
江戸の蕎麦の値段は、18世紀半ば以降、かなり長期にわたって同じだったようです。では、屋台で食べる蕎麦1杯は、いくらだったでしょう?
江戸時代には、各地に「浪花講」という組織がありました。これは、どのような組織だったでしょう?
日本では古くから古紙をすき返した再生紙が、さかんにつくられました。江戸時代には京都の西洞院紙などが有名でしたが、江戸を代表する再生紙でおもにちり紙として使われたのは、次のうちどれでしょう?
江戸時代、神田・千住・駒込などにあり、江戸の人々の日常生活を支えた市場は、次のどれでしょう?
下の浮世絵は、歌川広重画『東都名所 駿河町之図』です。この絵は、富士山が正面に見えることにその名が由来する駿河町に沿ってあった、江戸随一の大店を名所絵として描いたものです。さて、この大店はどの店でしょう?
リサイクル社会だった江戸の庶民生活では、古着を買って着ることが普通でした。では、古着などを売る床店が数多く集まっていたことで知られた場所は、次のうちどこでしょう?
江戸時代には、おもに金・銀・銭の3種の通貨が使われていました。金貨の単位は両・分・朱ですが、1両は何朱だったでしょう?
鈴木春信の浮世絵にも描かれた「笠森お仙」は、「明和の三美人」のひとりとして江戸市中の人気をさらいました。お仙が働いていた店には、彼女見たさに男たちが集まりましたが、その店はどんな店だったでしょう?
深川の芸者は、辰巳芸者という通称で呼ばれました。これは、深川が江戸城の辰巳の方角にあるからですが、辰巳(巽)とは次のうちどの方位でしょう?
公許の遊廓である吉原のメインストリートにあたる仲の町では、春になると客を楽しませるために、ある演出をしました。それは、次のうちどれでしょう?
幕府の許しを受けた歌舞伎の芝居小屋である江戸三座のひとつ、中村座の櫓幕には、中村座の紋が染め抜かれていました。それは、次のうちどれでしょう?
元禄~享保期(1688~1736)の上方の歌舞伎役者・初代芳沢あやめは、三都随一の女形といわれ、「傾城事」を得意としました。この「傾城事」とは、どんな役柄でしょう?
俳人の松尾芭蕉は、晩年を深川の隅田川のほとりにあった芭蕉庵で過ごしました。では、芭蕉がこの庵でつくったとされる句は、どれでしょう?
次にあげるのは、江戸時代の人々に親しまれた文学作品です。では、曲亭馬琴の代表作はどれでしょう?
寛政6〜7年(1794〜95)の約10か月間活躍し、役者の個性を誇張した大首絵で一世を風靡した浮世絵師がいました。それは誰でしょう?
私は享保18年(1733)生まれの蘭学者です。江戸の小塚原で死刑囚の解剖を見学して人体を調べ、その経験を生かして『解体新書』を訳述しました。のちには、その回想録として『蘭学事始』を著わします。さて、私は誰でしょう?
蘭学者の緒方洪庵は、天保9年(1838)大坂に蘭学塾を開き、日本の近代化に寄与した多くの人材を育てました。さて、その塾の名前は何でしょう?
箱根に恒久的な関所ができたのは元和5年(1619)のことで、その管理は小田原藩が行ないました。関所破りは重罪でしたが、関所破り未遂で捕まった者に対して、小田原藩はどのように対処したでしょう?
危険が多かった江戸時代の旅では、旅行中の用心のため、さまざまな道具がありました。「道中差」もそのひとつですが、これはどんな道具でしょう?
オランダ貿易の拠点となった長崎の出島は、中島川河口の中洲を埋め立ててつくられた、面積約4000坪の人工の島です。ここに滞在したオランダ商館員らは、出島を別の名前でも読んでいましたが、それは次のどれでしょう?
私はドイツ人で、長崎出島のオランダ商館付き医師として来日しました。そして、特別許可を得て長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英・伊東玄朴らの蘭学者・医者を育てます。さて、私は誰でしょう?
私は孝明天皇の妹で、文久2年(1862)に公武合体政策のため、14代将軍徳川家茂に嫁ぎました。さて、私は誰でしょう?
戊辰戦争最後の戦いが、明治元~2年(1868~69)の箱館戦争です。では、この戦いで旧幕府軍に加わり、新政府軍と戦って戦死した人物は、次のうち誰でしょう?